増やして増やさない行動を考える

どうも、ブクメです☆

今日2020年3月30日、志村けんさんが亡くなった日。私は、以下をツイートしようとして、躊躇していました。

「どんなに頑張ったって100%の日本人に自粛させるのは不可能。気づくのは今からでも遅くないと考えるべき(たとえ、遅すぎるとしても。)先日のツイートでも書きましたが、3月上旬に海外に不要不急で行くのが悪であれば、私は悪です。知人の飲食店に行くのが悪であれば、私は悪です。」

で、伝えるには文字数足りないなとなって、ブログに書くことにしました。

今年の私の行動、インスタにアップしたり、ツイートしたこと、ブログに書いていること。現在の新型コロナウィルスの問題と絡めれば、揚げ足を取ろうとすればいくらでも揚げ足を取れるし、震災以降に特に私が思って行動してきた「言葉だけで、世界中の苦しんでいる人を心配するよりも、身近な助けられる人を、自分に関わった人の声に耳を傾けて気に掛けることを優先しよう」と思って動いてきました。

今、このブログで書く場合の身近な人と言うのは、アカデミー関連の選手やそこに関わる方やご父兄の方、サポーターの方になるかと思います。

そもそも試合がなければ、このブログを読む方もあまりいないので、響かない可能性が高いのですが、今私が思っていることを書きたいのです。

新年のブログで書きましたが、私は昨年末に父を亡くしました。2019年初旬から入退院を繰り返して、家族自体が疲弊するような日々の中で、ある程度安定してきた年末に体調を崩して念のため再入院みたいになったところで、家族の誰もが思っていなかった、入院したその日に体調が悪化して、その日に亡くなりました。

もっと厳しい状況が昨年数回あり、その時には、覚悟したものの、手術して一命はとりとめました。なので、ある程度、父の入院に慣れたところで、いきなりでした。

正直なところ、昨年も、長引けば長引くほど「私を含めた家族の疲弊」「父には長生きしてほしい」の2つの想いで精神的に悩んだこともありました。結果的に、1年という長いか短いか分からない期間で父は亡くなり、一つの結果が出たことで、もちろん、別の意味の心のダメージは受けたものの、「家族の疲弊」というところでは、落ち着きつつあります。

今年見ていた医療系のドラマでもありましたが、どちらも選びたくない究極の選択というのは、訪れるものだなと。

もちろん、「命が大事」というところで考えたら、新型コロナウィルスが出始めたときには、広めないことが重要ですが、今回の事態というのは、自粛の先に経済の停滞が確実に待っていて、その停滞が生むものは、多くの死だと私は思ったんですね。

どちらを選んでも厳しい先ばかりが見える。

だから、曖昧な情報のうちは、「身近な人を優先」という選択を取ってきました。もちろん、自分自身の生活もありますので、私の場合はフリーランスという仕事形態の中で、実際に動くことが仕事につながり、感じることが仕事につながり、多くコンテンツとして作り出す中で、そのうちのごく僅かが、上手く行くことでお金になるような、生き方をしてきました。ある意味、「働き詰め」でも全く稼げない日もあれば、「1日中ゴロゴロ」していても、稼げている日もあるような日々。

これが生むのは、何かコンテンツの事を考えて、追加していないと不安な日々です(もちろん、自分で時間をコントロールしやすいなどのメリットはありますが。)

なので、今は、実際に動いて情報収集ができないので、ネタ不足でコンテンツが作成できないという不安の日々です。

話がずれそうなので、戻しますと、私にとっては、「父の死」をまだ間近に感じることができている時期なので「死」に対して、「志村けんさんの死」と言うものを目にした時に考えることがありました。私の世代では、子供のころから、テレビにはいつもいる存在で楽しませてもらった方ですから、この方の死と言うのは非常に大きな悲しみになります。

死を比較するのではなく、身近な人の死とその別れ方を語りたくなったんですよね。

私の場合は、父の死を見届けることができました。

でも、志村けんさんの場合は、新型コロナウィルスに感染しての死と言うことで、おそらく、濃厚接触による感染の可能性があるということで、誰もお見舞いも許されていなかったでしょうし、身近な方が死を見届けることもできなかったと思うんですよね。

「身近な人の死」

これだけで、十分苦しいのに、新型コロナウィルスには、大事な人の死を見届けることを許さないことや、場合によっては、子供が知らずに持ってきて親を殺してしまう危険性もある(若ければ大丈夫ということも崩れてきているとは思いますが。)

正直なところ、渡航した時には、感染者が0だったカンボジアでしたが、私も3月5日から10日まで海外に足を運んで、帰国後に実家に行ったりしたので、その事実を強く認識してからは、2週間が経過するまでは、自分が症状なくても親が体調崩したらと不安でした。

この辺りまで読んでいただくと、タイトルの意味やツイートしようとしていたことの意味が伝わりやすくなると思うのですが、コロナウィルスというワードが聴こえた瞬間から、自宅待機してたという人が完全なる正義とか、早い遅いが善悪を分けるのではなく、今は、ここまで起こった事態と、スタートが日本ではないために、海外で起こっている悲劇も含めて、教訓にしなければならない事実も増えているので、一人でも多くが、今どうするべきかを考えることが必要。

既に起こった行動や人を責める前に、『これから意識して行動(今は、できる限りの行動自粛)する人を増やす』ことが正義だと思いますし、それによって、『新型コロナウィルスがもたらす悲劇を増やさない』ことが正義だと思います。ということを伝えたいのです。

それぞれの方の行動には背景があることも多い。だから、起こったことを責める前に、これからのことを考えて、伝え合って、少しでもダメージを減らして行くことが必要です。

もちろん、私が行った行動も責められても何も言えません。

結局、カンボジアに残した大事な人は、都市に一人でいることで、ストレスでおかしくなりそうな状況まで来てしまった。国もクローズするので私自身が行くこともできないということで、家族のいる田舎に帰るという選択肢になりました。

このこと自体は、非難されている、先週末に都心から田舎に帰った若者と変わらないですよね。でも、日本と違って、有事に一人でいること、仕事がないこと、そもそも治安が悪い場所での治安の悪化が意味するものなど、悪い結末が日本とは比べられないくらいに容易に想像ができる場所なので、できることとすれば、少し生活できる助けをして、知っている人が多い田舎に戻ることを納得するしかない。そして彼女や、その田舎に集まった人たちが誰もコロナウィルスに感染していないことを願うだけです。

同時に、海外に在住している日本人も、国によっては、その国に留まること自体が危険と考えられるので、私は、話をする人には、戻ってきたほうが良いと伝えています。でも、海外から戻る人が危険と騒ぐ人も多いですよね。もちろん、旅行なら自業自得とも言えるところもありますが、このケースでも日本に入れるなとあなたは言えますか?

なので、人の行動を非難する前に、危機的と感じた人が身近な人に伝えて増やして行くしかないと思います。

私も、今は自粛する方に移しました。長期戦は確実ですから、私のように、気づいて行動を変えていく人が増えていくことが、少しでも長期戦を短くする望みになると思います。

究極の2択だらけで恐ろしい現在ですが、今やることは自粛です。